意欲とか働くとかいきるとか

就活も終わり、コロナ禍も弱まり、研究を本格的に始めよという命令が下った。

 

私も半年前は後期から本気出すと意気込んでいたが、いざ時期が近づくとベッドから体が離れなくなってきた。

 

友人の送別会のBBQで怪しい鶏肉をたべて腹を下して一週間ほど休んでから、その惰性が続いてさらに一週間のお休みをいただいてしまった。正確には勝手にくすねただけだ。

 

大学院生は研究をやるのが常識だ。研究に人生を費やすのが当然だ。それはわかる。しかし、皆が皆研究が楽しくて残っているわけではない。研究が生きがいの一部に入ってくるとは限らない。

 

私のような趣味が人生の大きな大きな軸であり、一般に言われる仕事や学業が、金をもらって生きていくうえで必要なだけであって本来人生の時間を奪う邪悪な存在であるという人も少なからずいるということを、研究にすべての人生を下げる教授方は理解していただきたい。

 

そんなことならさっさと学校などやめて働きながら趣味を全うしなさいというだろう。まったくその通りである。大学院生まで進みながら研究が時間を奪うと愚痴をこぼしている人間はかなり少数派だろう。

 

しかし、社会的地位などをきにしてやまない私には、学歴が高くないと、社会という荒波に飛び込む勇気はないのだ。少しでも大きく上部で固い船に乗って出航したいのだ。

 

まぁ今日は何が言いたいかというと、趣味に没頭、いや人生に没頭する時間が欲しいということだ。大多数の人間は恐らくやりたくない仕事をしながらそれのおかげで幸せな人生を築こうとすることができる。仕事をすること自体が人生の幸せとなっている人間なんて一握り。

 

私もやってみたい仕事に就くことができなかった。つけていたら幸せが仕事になっていただろうか。わからない。私の趣味の軸はとても太い。趣味で仕事にすることも理論上可能である。がんばればの話。それをしないのが弱者である私の特徴であり、ほかの人間の大多数が私と同じ種類に属していると信じて安心している。それでも心の隅では、仕事を人生としている少数に憧れ、自分の中のどこかにその才能が有って今は寝息をたてて潜んでいるに違いないと信じているのだ。

なんと愚かな人間なのだ。つくづく思う。もう少しあがけと。もがけと。まだそのほうがかっこいいと思えるものだ。努力を周りが笑う声が聞こえる。幻聴だ。容易に想像できるゆえ。

 

変えるには周りを選ぶ。自分の奥底を信じて動くか。まずはどちらかを実行せよという話だ。